歴女なら一度は聞いたことのある有名な戦国武将。その戦国武将と共に、刀剣・日本刀を手に取って戦った女剣士は実在しました。
ここでは「女性と刀剣・日本刀」に焦点をあて、多くの歴女が憧れる有名な女武将「巴御前」や戦国の女城主「井伊直虎」など実在した女剣士をご紹介します。 戦国武将を支えた女剣士たちの逸話や、歴史好きの歴女が一度は訪れてみたい女剣士ゆかりの地など、歴女必見のエピソードがご覧いただけます。

女性と刀剣

女性と刀剣
歴女なら一度は聞いたことのある有名な戦国武将。その戦国武将を支えた女性たちは、刀剣を手に戦っていました。時代劇や戦国時代の映画にも出てくる帯刀した姿の女性たちは、歴女も憧れる存在です。ここでは「花嫁道具としての刀剣」、「女性の武芸指南役」、「女性に人気の刀剣・武術」のお話を通して、そんな女性たちが身に付けていた「懐剣」(かいけん)や女性の武芸者「別式女」(べつしきめ)など、女性と刀剣の歴史に触れてみましょう。

薙刀と女剣士

薙刀と女剣士
武士達による合戦と聞くと、馬に跨った(またがった)武将が、長大な「大太刀」(おおたち)を馬上から振り下ろす姿や、歩兵達が「槍」を敵に突き刺す様を思い浮かべる人も多いのではないのでしょうか。このように、武具を手にして戦うのは、そのほとんどが男性であったと思われがちですが、実は男性にも負けない勇猛さで、武具を持って戦ったと伝えられている女性もいたのです。そんな女性達が共通して使っていた武具が、長柄(ながえ)の先端に刀身が付けられた「薙刀」(なぎなた)でした。「女剣士」とも言える女性達が、いくつか種類のある日本刀のなかでもなぜ薙刀を用いていたのか、さらには、女剣士を代表する人物についてもご説明します。

北条政子

北条政子
「北条政子」(ほうじょうまさこ:別称「平政子」[たいらのまさこ])は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性です。もともとは伊豆の流人であり、その後、鎌倉幕府を創立した「源頼朝」(みなもとのよりとも)と周囲の反対を押し切って結婚。源頼朝の「御台所」(みだいどころ)、つまり正室となった北条政子は、のちの2代将軍「源頼家」(みなもとのよりいえ)や3代将軍「源実朝」(みなもとのさねとも)など、二男二女を産んでいます。 そして夫・源頼朝の没後、出家して「尼御台」(あまみだい)と呼ばれるようになった北条政子は、幕政の実権を握って「尼将軍」と称されるようになったのです。 2022年(令和4年)のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主役「北条義時」(ほうじょうよしとき)の姉でもあった尼将軍・北条政子が、鎌倉幕府でどのような役割を果たしたのかについて、その生涯を紐解きながら見ていきます。

巴御前

巴御前
今日の日本において、最も有名な女武将と言えば「巴御前」(ともえごぜん)でしょう。巴御前は源平合戦のとき、木曽義仲(きそよしなか)軍の一大将として活躍し、その勇猛さは日本各地に伝説が残るほど、語り継がれています。ここでは巴御前と木曽義仲との数々のエピソードともうひとりの女武将「葵御前」の伝説、日本全国にある巴御前ゆかりの地についてお話しましょう。

静御前

静御前
「源義経」(みなもとのよしつね)の側室として知られる「静御前」(しずかごぜん)。2022年(令和4年)のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」において、「石橋静河」(いしばししずか)さんが演じたことで注目を集めましたが、その半生は謎に包まれた部分が多い人物です。謡曲(能の詞章や脚本部分、及び声楽部分のこと)の「二人静」(ふたりしずか)や、浄瑠璃の「義経千本桜」の主題となった静御前の生涯を、歴史書「吾妻鏡」(あずまかがみ/あづまかがみ)などを通して紐解きながら、静御前と源義経にまつわる逸話についてもご説明します。

板額御前

板額御前
平安時代末期(12世紀後半)に活躍した女武将として名高い「巴御前」(ともえごぜん)とほぼ同時期に、もうひとり、その勇猛ぶりを称えられた女武将がいます。越後(新潟県)の有力な豪族で、越後平氏とも言われた城氏(じょうし)の姫・「板額御前」(はんがくごぜん)です。

甲斐姫

甲斐姫
「織田信長」に続き、「豊臣秀吉」が天下統一を成し遂げた安土桃山時代に、一国の城主の娘として生まれ、19歳にして秀吉による小田原征伐の際には、豊臣方との1ヵ月にも及ぶ籠城戦の陣頭指揮を執った東国無双の姫として知られる「甲斐姫」(かいひめ)。彼女の運命を変えた1590年(天正18年)6月4日から7月15日(旧暦)の1ヵ月余りの日々を追いましょう。そして、その後の甲斐姫と、甲斐姫ゆかりの地を巡ります。

大祝鶴姫

大祝鶴姫
日本で唯一現存する女性用の鎧という意見もある「紺糸裾素懸威胴丸」、それを実際に着用して戦ったといわれている女武将がいます。 戦国時代(16世紀半)の伊予国(愛媛県)、18歳という若さで水軍を率いて周防国(山口県)の大内氏と何度も戦い、瀬戸内海に浮かぶ故郷・大三島を守り抜いた「大祝鶴姫」です。

佐々木累

佐々木累
「佐々木累」(ささきるい)は、江戸時代前期の女性の剣術家で、江戸時代、女性のひとつの職業として確立されていた武芸指南役にも就いていた人物です。風変わりな出で立ちで、凄腕の女剣士、佐々木累の人生はどのようなものだったのでしょうか。その生涯と彼女ゆかりの地をご紹介します。

中沢琴

中沢琴
「中沢琴」(なかざわこと)は、幕末に男装姿で「浪士隊」(ろうしたい)に参加し、江戸市中の見廻りを担い、治安の維持にあたった女剣士です。江戸、明治、大正、昭和の4つの時代を駆け抜けた中沢琴の生涯はどのようなものだったのでしょう。様々なエピソードと共に、彼女の人生をひも解きます。

千葉佐那

千葉佐那
「千葉佐那」(ちばさな)は、幕末の江戸で道場主の家に生まれ、14歳にして北辰一刀流免許皆伝(ほくしんいっとうりゅうめんきょかいでん)した女性の剣豪です。千葉道場へ剣術修行に来た「坂本龍馬」(さかもとりょうま)と恋に落ち、彼女の人生は幕末の荒波の中を大きく漂うことになります。そんな彼女の生涯と坂本龍馬とのエピソードが窺えるゆかりの地をご紹介します。

井伊直虎

井伊直虎
江戸幕府創設の功臣「徳川四天王」(とくがわしてんのう)のひとり、井伊直政(いいなおまさ)。その井伊直政を養育し、徳川家康の家臣としての道を開いたとされるのが、戦国時代、井伊家の「女城主」となった「井伊直虎」(いいなおとら=1582年没)です。ここでは井伊直虎のエピソードと彼女にゆかりのある場所を紹介しましょう。 おんな城主 直虎井伊直虎が主人公の大河ドラマ「おんな城主 直虎」についてあらすじやキャスト、ゆかりの地などをご紹介。

義姫

義姫
戦国時代を代表する名将であり、「もう少し早く生まれていれば天下人になれた」と語り継がれる仙台藩初代藩主「伊達政宗」(だてまさむね)。その母で、「奥羽(おうう)の鬼姫」との異名も持つのが義姫(よしひめ=1547~1623年)です。

神功皇后

神功皇后
古代、朝鮮半島を服属下に置いたとされる「三韓征伐」(さんかんせいばつ)伝説を持つ「神功皇后」(じんぐうこうごう)。卑弥呼(ひみこ)と並び、古代日本の象徴的なヒロインのひとりであり、古代日本における女将軍の象徴とも言える人物です。

立花誾千代

立花誾千代
戦国時代、名将達が認めた希代の女武将であり女城主として、歴史家の間でよく知られる「立花誾千代」(たちばなぎんちよ=1569~1602年)。女城主の逸話は日本各地に残されていますが、文書ではっきりと残るのは、この立花誾千代だけだと言われています。

小松姫

小松姫
天下分け目の「関ヶ原の戦い」で親子・兄弟が敵味方に分かれた真田家(さなだけ)を合戦時も、さらに合戦後も武勇と思いやりで支えたとされるのが、真田信之(さなだのぶゆき)の正室「小松姫」(こまつひめ=1573~1620年)です。

中野竹子

中野竹子
1868年(明治元年)8月、会津戊辰戦争(あいずぼしんせんそう)の際、新政府軍参謀であった板垣退助(いたがきたいすけ)が会津若松城(鶴ヶ城)下に侵攻。城下全域が戦闘状態となり銃撃戦が始まる中で、決死隊となる娘子隊(じょうし隊・婦女隊とも言う)の先頭に立ち、薙刀を振るって戦った女性がいました。薙刀の名手と称された中野竹子(なかのたけこ)です。不幸にもその戦いで銃弾に倒れ、22歳の若さで壮烈な死を遂げた彼女の一生を辿ってみましょう。

吉岡妙林尼

吉岡妙林尼
豊後国(ぶんごのくに・現在の大分県)の戦国大名・大友宗麟(おおともそうりん)に仕えていた吉岡鎮興(よしおかしずおき)の妻・吉岡妙林尼(よしおかみょうりんに)は、耳川の戦いで命を落とした夫の死後、息子が城主を務める鶴崎城が島津軍に攻められたとき、女性や農民を率いて籠城戦を展開。敵を欺く見事な采配で島津軍を撃退し、城を奪還することに成功しました。その後、妙林尼は九州の女丈夫と評され、ヒロインの武勇伝として現代まで伝えられています。

鶴姫

鶴姫
常山城(つねやまじょう)の城主・三村上野介高徳(みむらこうずけのすけたかのり)の妻、鶴姫(つるひめ)は、1574年(天正2年)から翌1575年(天正3年)にかけて起こった「備中兵乱(びっちゅうひょうらん)」の戦いで、三村家が劣勢に追い込まれ、常山城が敵に完全に包囲されると見るや、たったひとりで敵陣へと乗り込んでいきました。その鶴姫の姿を見ていた常山城の従女34人も団結し、「女軍」(じょぐん)として長刀(薙刀)を手に敵陣の中に飛び込みましたが、全員討ち取られてしまったのです。戦いに敗れ、自決した鶴姫と勇敢な従女達の戦いはやがて「常山女軍の戦い」(つねやまじょぐんのたたかい)と言われ、後世に語り継がれることになりました。

富田信高の妻

富田信高の妻
伊勢国(三重県)安濃津(あのつ)城主・富田信高(とみたのぶたか)の妻。肥前平戸(ひぜんひらど)藩主・松浦鎮信(まつうらしげのぶ)が著した戦話「武功雑記」(ぶこうざっき)にも記される、夫の命を自らの槍合わせで救った富田信高の妻の武勇を紹介しましょう。

赤井輝子(妙印尼)

赤井輝子(妙印尼)
「赤井輝子」(あかいてるこ)は、戦国武将として有能だった夫「由良成繁」(ゆらなりしげ)が築いた由良家を守り抜くため、出家していたにもかかわらず70代半ばを過ぎてから戦に加勢し、成果を挙げました。新田由良家を守った東国武者最後の守護者である赤井輝子は、戦国時代を生きる偉人のなかでも一目置かれ、敬愛される存在です。赤井輝子の生涯と、夫である由良成繁との関係性を見ていきましょう。

天草大夫大蔵太子(播磨局)

天草大夫大蔵太子(播磨局)
「天草大夫大蔵太子」(あまくさだゆうおおくらのおおいこ/あまくさだゆうおおくらふとこ)は、別名「播磨局」(はりまのつぼね)とも呼ばれる女性です。天草大夫大蔵太子は、元寇の際に自ら水軍を率いて戦いました。天草大夫の位は元寇における功績を称して与えられたもので、大蔵太子はのちに弟の「大蔵種資」(おおくらたねすけ)に地頭(じとう:荘園の管理職)の地位を譲ると、その子「大蔵兵衛次郎種益」(おおくらひょうえのじろうたねます)の代から天草氏を名乗るようになります。播磨局こと、天草大夫大蔵太子の生涯と父・「大蔵右馬太郎種有」(おおくらのうまたろうたねあり)ゆかりの地を見ていきましょう。

阿南姫(大乗院)

阿南姫(大乗院)
「阿南姫」(おなみひめ)は、「伊達政宗」の祖父にあたる「伊達晴宗」(だてはるむね)の長女です。10代で正室として「二階堂盛義」(にかいどうもりよし)のもとに嫁ぎましたが、1581年(天正9年)に夫の二階堂盛義が病死すると、出家して「大乗院」(だいじょういん)と名乗り、1582~1589年(天正10~17年)に「須賀川城」(すかがわじょう:福島県須賀川市)の城主を務めます。のちに阿南姫は伊達政宗と激しく対立し、決死の覚悟で戦いに挑んだ女城主です。阿南姫の生涯やエピソード、ゆかりの地などについて見ていきましょう。

別所波

別所波
「別所波」(べっしょなみ)は、1467~1590年(文正2年/応仁元年~天正18年)の戦国時代に活躍した女性で、「別所長治」(べっしょながはる)の叔父である「別所吉親」(べっしょよしちか)の妻です。「三木の干殺し」(みきのひごろし)と呼ばれる容赦ない兵糧攻めを「豊臣秀吉」が行ったことで知られる「三木合戦」(みきかっせん)において、別所波は獅子奮迅の働きを見せ、豊臣秀吉から「鬼神のような女」と評されます。籠城していた「三木城」(みきじょう:兵庫県三木市)が落城する際、別所波は子を殺害したあとに自害するという壮絶な最期を遂げました。別所波とはどのような女性だったのか、生涯やエピソード、ゆかりの地などについて見ていきましょう。

市川局

市川局
「市川局」(いちかわのつぼね)は、安土桃山時代の武将「市川経好」(いちかわつねよし)の妻です。夫が不在の居城を攻められたとき、甲冑を身にまとい薙刀(なぎなた)を持って、兵を鼓舞しながら指揮を執りました。生まれた年や父母、市川経好に嫁いだ年などは分かっていませんが、夫・市川経好の年齢を考えると、市川局が城を守ったのは40~50代の頃と推測されます。謀反や裏切り、下剋上が当たり前であった厳しい時代を生きた市川局の生涯とエピソード、夫・市川経好などについて見ていきましょう。

お京の方

お京の方
日本の歴史のなかには、男性に引けを取らないほど勇ましい女武者が何人も存在しますが、「お京の方」(おきょうのかた)もそのひとりです。虎退治など数々の武勇伝を持つ熊本の英雄「加藤清正」(かとうきよまさ)を追い詰めた女性として知られています。お京の方は、夫である「木山弾正正親」(きやまだんじょうまさちか)と長男・次男を討ち取った加藤清正を相手に、女であることを隠して仇討ちを挑みました。お京の方の生涯やエピソード、ゆかりの地などについて見ていきましょう。

円久尼

円久尼
「円久尼」(えんきゅうに)は、戦国時代に生きた女性です。肥前国(現在の佐賀県、長崎県)の戦国大名「龍造寺隆信」(りゅうぞうじたかのぶ)の家臣であり、「龍造寺四天王」(りゅうぞうじしてんのう:龍造寺家に仕えた4人の主要な家臣)のひとりに数えられる「百武賢兼」(ひゃくたけともかね)の妻でした。島原半島で龍造寺隆信と「有馬晴信」(ありまはるのぶ)、「島津家久」(しまづいえひさ)連合軍の間に勃発した「沖田畷の戦い」(おきたなわてのたたかい)で夫が亡くなったあとも、居城を守って戦ったと伝えられています。円久尼の生涯やエピソード、ゆかりの地について見ていきましょう。

神保雪子

神保雪子
「神保雪子」(じんぼゆきこ)は、明治維新直前の幕末の混乱期に生き、悲劇的な最期を遂げた女性です。美貌と聡明さで評判だった神保雪子は、「会津藩」(現在の福島県会津若松市)の藩士「神保修理」(じんぼしゅり)と結婚し、その睦まじい夫婦仲が周囲の羨望の的となったと言われています。しかし、世の中が大きく変わろうとしていた時代に、会津藩は「白虎隊」(びゃっこたい)や「新選組」(しんせんぐみ)などにまつわる、多くの悲劇を生み出した「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)の舞台となったため、神保雪子の運命も大きく変わってしまいました。神保雪子の生涯やエピソード、ゆかりの地などについて見ていきましょう。

「歴女必見!戦国武将を支えた女剣士~女性と刀剣~」では、戦国武将を支えるため刀剣・日本刀を手に奮闘した女剣士を紹介しています。
日本各地に伝説が残る「巴御前」や戦国の女城主「井伊直虎」、豊臣秀吉の側室「甲斐姫」や本多忠勝の娘「小松姫」、さらには日本書紀に登場する「神功皇后」や坂本龍馬と恋に落ちた「千葉佐那」など多くの女剣士の逸話を掲載しています。歴女なら、その歴史ロマン溢れるエピソードに史跡巡りをしたくなるかも。また、「花嫁道具としての刀剣」や「女性の武芸指南役」、「女性に人気の刀剣・武術」など歴女だけでなく刀剣女子も楽しめる記事をご紹介します。
刀剣ワールドでは、他にも刀剣・日本刀や甲冑(鎧兜)、浮世絵や戦国武将に関するコンテンツをご用意しております。女剣士や歴史に想いを馳せながら、刀剣・日本刀や甲冑(鎧兜)、浮世絵や戦国武将の記事も、ぜひご覧ください。

もっと見る▼
注目ワード
注目ワード